Yasuko Agawa / 阿川泰子 - 100JFusion.com

Yasuko Agawa / 阿川泰子
Biography

阿川 泰子(あがわ やすこ )は、神奈川県鎌倉市出身のジャズシンガー、元女優。「シュガー・ボイス」、「ネクタイ族のアイドル」「オジサマ族のアイドル」などと称された。

 ・ Spotify : Yasuko Agawa / 阿川泰子

Yasuko Agawa / 阿川泰子のアルバム

・ Yasuko “Love-Bird” (ヤスコ/ラブバード 1978年 ビクター)
・ Flyin’ Over (フライン・オーバー 1978年 ビクター)
・ SWEET MENU (スイート・メニュー 1980年 ビクター)
・ JOURNEY (ジャーニー 1980年 ビクター)
・ SUNGLOW (サングロウ 1981年 ビクター)
・ SOFT WINGS (ソフトウイングス 1982年 ビクター)ライブ盤
・ Fine! (ファイン 1982年 ビクター) 東京・L.A.録音
・ Night Line (ナイト・ライン 1983年 ビクター)
・ Gravy (グレイビー 1984年 ビクター)L.A.録音
・ ALL RIGHT WITH ME (オール・ライト・ウイズ・ミー 1985年 ビクター)
・ Lady September (レディ・セプテンバー 1985年 ビクター)
・ MELODIES (メロディーズ 1986年 ビクター)
・ MS. MYSTERY (ミズ・ミステリー 1987年 ビクター)L.A.録音
・ OURO do MANAUS (オウロ・ド・マナウス 1988年 ビクター)L.A.録音
・ WHEN THE WORLD TURNS BLUE (ホエン・ザ・ワールド・ターンズ・ブルー 1989年 ビクター)
・ 「DANCING LOVER’S NITE」MISS A (ダンシング・ラバーズ・ナイト・ミス・エー1989年 ビクター)東京・L.A.録音、N.Y.mix
・ オシャレ30・30 (1989年 ビクター)
  古舘伊知郎との競演曲 “Everybody Loves Somebody(誰かが誰かを愛してる)”を収録。
・ YOUR SONGS (ユアー・ソングス 1990年 ビクター)
・ COME IN CHRISTMAS (カム・イン・クリスマス 1990年 ビクター)L.A.録音
・ MY DUKE (マイ・デューク 1991年 ビクター)L.A.録音
・ Le Cinema (ル・シネマ 1992年 ビクター)東京・L.A.録音
・ IN AUTUMN (イン・オータム 1992年 ビクター)L.A.録音
・ AMIZADE (アミザージ 1993年 ビクター)L.A.録音
・ Beauty And The Beast (ビューティー・アンド・ザ・ビースト 1994年 ビクター)東京・L.A
・ オシャレ30・30 Vol.2(1994年 ビクター)
・ CLOSE TO YOU (クロス・トゥー・ユー 1996年 ビクター)
・ Echoes (エコーズ 1996年 ビクター)London録音
・ 「ソング・ブック」5枚組CD集 1996年 ビクター)
・ Tea For Two (ティー・フォー・トゥ1997年 ビクター)L.A.録音
・ L.A. NIGHT (L.A.・ナイト 限定スペシャルLP、2000年 ビクター)
・ Other World (アザー・ワールド 2001年 日本コロムビア)
・ We’ve got mail (ウィ・ガット・メール 2003年 日本コロムビア)
・ Anklet (アンクレット 2004年 日本クラウン)
・ Tiara (ティアラ 2004年 日本クラウン)
・ RE-MODE-CLUB JAZZ DIGS YASUKO AGAWA (REMIX-CD)、TATSUO SUNAGA DIGS BEST OF YASUKO AGAWA (BEST-ALBUM)、『復刻版』 紙ジャケットCD 名盤復活! 〜3タイトル〜(JOURNEY、SUNGLOW、OURO do MANAUS)(2007年 ビクター)5枚同時リリース

Yasuko Agawa / 阿川泰子の活躍

女優業を辞めた後。銀座の「ファンファン」でジャズと出会い1973年、ジャズ・クラリネット奏者の鈴木章治を紹介され、ジャズ・ボーカリストに挑戦、翌年「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなる。
後にソロ・シンガーとなり、六本木や赤坂のライブ・スポットで脚光を浴びる。1978年に「ヤスコ/ラブバード」で歌手デビュー。ビクターのバックアップのもと、トミー・フラナガン、ローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツ、ロン・カーター、セルジオ・メンデス、ネイザン・イースト、ジョー・サンプルなどの著名ミュージシャンとセッションを行う。1981年には、自らのバックバンド「フラミンゴ・ビッグ・バンド」を結成。スタンダード曲を現代的なアレンジで歌うコンセプトが受け、その声質から「シュガー・ボイス」と呼ばれ、曲のCM起用や自らも出演することで、ジャズ・ボーカルの分野でアイドル的な人気を獲得する。

1980年秋に出した四枚目のアルバム『JOURNEY』が、サラリーマンを中心に9万枚のセールスを記録。それまでジャズといえばインストルメンタルしか売れたことがなく、ボーカルものはせいぜい1万5000枚程度。それまでの最高は笠井紀美子で5万枚といわれていたため、9万枚という売上げは異例であった。また当時はニューミュージック勢以外の邦楽アルバムはほとんど売れず、歌謡曲の沢田研二ですら、アルバムの売り上げは5万枚もいかなかった。デビューアルバム『Yasuko “Love-Bird”』から1982年『SOFT WINGS』までの6枚が累計90万枚売れて、当時のジャズブームを作った一人と称された。

1987年からテレビのトーク番組オシャレ30・30で古舘伊知郎と司会を務め、ゲストとのトークの他に毎回1曲歌を披露したが、延べ360曲となった。文学座時代の同期の関係からか、当時テレビのトーク番組にはほとんど出なかった松田優作もこの番組に出演している(1989年8月20日放送回)。

1970年代の後半では珍しい美女シンガーだったため、当時のロック誌(Music Life等)にもグラビアやインタビューが掲載されることがあった。